拡張少女系トライナリ―という「ゲーム」について。
さて、そろそろ書いてもいいんじゃないかな…と思う頃合いなので
拡張少女系トライナリーについて書いてみる。
「拡張少女系トライナリー」というのはかつて存在したソシャゲで、現在はサービス終了している。
こう書いただけで、一部のプレイヤーからは「にわか乙」と言われるかもしれない。
それでも僕は自分のココロを整理してトライナリーに対して3つのスタンスを持てるようになった。
ひとつ目は「トライナリーはサービス終了したソシャゲである」というスタンス。
ふたつ目は「トライナリーは『面白いから面白い物語』であった」というスタンス。
そして最後は多くのbotさんたちと同じであろう「トライナリーは現実である」というスタンス。
それぞれのスタンスを同時に持つのは一見破綻している(ひとつ目とふたつ目は破綻しないか)
それでも、ヒトのココロはたったひとつではない。
葛藤をかかえる時、あなたの心に天使と悪魔がいるように…
「あなたのココロ」は決して筋が一本通っただけの単一のものではない。
複数のあなたがいて(多重人格と言う意味ではない)それらがあなたを構成するパズルのピースになっている。
だから僕はトライナリーについて「ゲーム」として語れる。
「物語」として語れる。「現実」として語れる。
それらは矛盾することなくひとりのボクを形作る。
さて、喪が明けた…というわけではないけれど、そろそろトライナリーについて語るべき時なんじゃないだろうか。
先日トライナリーの公式グッズ通販が届いたことで凄く「トライナリーは現実」という気持ちが強くなっている。
聖地巡礼もGW前に行ってきました。
そういう時だからこそ「ソシャゲ」としてのトライナリーについて改めて書き留めておこうと思ったんだ。
さて「ソシャゲ」としての拡張少女系トライナリーについて語る前に、
「ソシャゲ」について1つ前置きをさせてほしい。
ソシャゲとは「ソーシャルゲーム」つまり「社会・ゲーム」というわけだけど、
この言葉の定義と使われ方について…。
ソーシャルゲームは本来、「専用のソフト」を必要としないWebブラウザゲームだ。
現在でも「アイドルマスター・シンデレラガールズ」(いわゆるモバマス)や「グランブルーファンタジー」などが代表的な「原義的ソーシャルゲーム」の生き残りとして運営されている。
一般的に「ソシャゲ」とひとくくりにされることが多い「デレステ」(リズムゲームのほうのシンデレラガールズ)や、
「Fate/GO」なんかは、原義的には「ソーシャルゲーム」ではないらしい。
(専用のアプリを必要とするため)
なのでトライナリーは「ソーシャルゲーム」ではないということは前置きしつつ、
ここでは慣例に則って「ソシャゲ」と括ってしまうことにする。
ソシャゲとしてのトライナリーは基本的に「シナリオを読み進める→ガチャで引いたカードで戦闘」というスタイルの…まあ「一般的」なスタイルに近い感じだ。
ゲームとしての戦闘システム
ここは正直トライナリーの本質ではないんだけど個人的にはめちゃくちゃ興味深いポイントだったので紹介しておこうと思う。
FGOやマギレコ系の「配布された5枚のコマンド」から選んで攻撃。
「役」をつくることで攻撃に追加効果がつく。
そんなタイプのゲームだ。珍しくもないだろう?
でもちょっぴり珍しいのは「5枚のコマンド」から「3つ」を選択するのがFGOやマギレコなのだけど、トライナリーは「5枚から4枚選択」というところ。
実に興味深いシステムだった。
これは一見複雑さが上がってるように見えて複雑さが下がっているというところが興味深いポイントだ。
5つから4つを選ぶのは3つを選ぶよりも考えることが増えている…ように見えるが実は減っている。
5つから4つを選ぶというのはつまり「選ばない1つを選ぶ」ということなので、
実質的な頭脳労働は簡単になっている…というのが興味深いところだった。
ちなみに「役」と「コマンド」は以下の通り。
コマンドは「威力の赤」「回復の緑」「MP回収の青」の3種。
4枚を組み合わせる時の「役」は…
「同色3枚を連続して並べる」か「2色を2枚ずつ連続させるか」
たとえば…
赤赤赤青→威力大アップ
赤赤青青→威力中アップ+MPチャージ
そして独特なシステムが「3スタンス」という「3色を並べる役」があるということ。
赤赤青緑→ランダム?に効果発生
手札配分に「役ができない」パターンがありえないのだ。
狙いたい役かは別として常にプレイヤーは役を作れる。
もし配布された5枚が青3枚、赤2枚だとする。
プレイヤーは青青青赤でゲージを大きく回収するか青青赤赤でゲージをためつつ威力を上げるかを選択できる。
役が作れないパターンがないのはこのタイプの「5枚から選ぶ」ゲームでは珍しいんじゃないだろうか?
あとゲームバランスの調整が良い感じにうまくて
回復主体で戦ってるときは「うわ…HPギリギリで勝った…これ回復ないと無理な奴じゃん…」と感じる敵がいるとする。
実は威力アップ主体で戦うとキルターンが1ターン早まって1回分被弾が抑えられるので回復なしでも同じくギリギリで勝てたり
ぶっちゃけどの戦闘スタイルでもそれなりに「戦ってる」という実感の得られるバランスなのが興味深かった。
まあ、でもこの辺はぶっちゃけ「ちょっとおもしろい」くらいで、
別にそんなに重要な要素ではない。
トライナリーの「ゲーム」としての本質はそこではないからだ。
「ゲーム」とは何か?
ゲームとは何か?
そこに明確な定義はなく、古今東西いろいろな人物がそれぞれの定義を示している。
ここでは幸福な市民のためのTRPG「パラノイア」の3人の製作チームのひとり、
Greg Costikyan氏の定義する「ゲーム」を引き合いに出そう。
曰く、ゲームとは…
「充分な情報の下に行われた意思決定をもって、プレイヤーが与えられた資源を管理しつつ自ら参加し、立ちはだかる障害物を乗り越えて目標達成を目指すもの」
であるという。
トライナリーはこの言い回しに置いてゲームだと言えるだろう。
というのもトライナリーの本質は「戦闘の間にあるストーリー」にこそあるからだ。
あー、はいはい。
「このソシャゲはストーリーが面白い」ってやつでしょ。
ストーリーが面白いソシャゲはたくさんあるよ。
そう思うわれるかもしれない。
でもトライナリーの場合、そういう「ストーリーが面白い」とはちょっと違う。
この「戦闘の間にあるストーリー」こそがトライナリーを真にゲーム足らしめている。
つまりトライナリーのストーリーはコスティキャンのゲーム定義における
「充分な情報の下に行われた意思決定をもって、プレイヤーが与えられた資源を管理しつつ自ら参加し、立ちはだかる障害物を乗り越えて目標達成を目指すもの」だったのだ。
ストーリーが?
ストーリーが、だ。
さて、あまり長くなりすぎると読んでもらえなくなるので今回はここまでで一旦〆て、
次回の記事でトライナリーのストーリーがゲームという話をしよう。