百合の間に挟まろうとする男はなぜ『殺してもいい』のか?
あるいは、百合導関数と定数項Cの話。
Q.百合の間に挟まろうとする男はなぜ殺してもいいのか?
A.殺してもいいわけないだろ。
「百合の間に挟まろうとする男は殺してもいい」という風潮
令和元年現在の日本インターネット界隈に、「百合の間に挟まるものは死に値する」というミームがあることは事実だ。
(それが良いことか悪いことかは別として)
しかし一体どうして百合の間に挟まる男は殺してもいいとまで言われるような迫害を受けるのか?
それを疑問視するツイートがTwitterのTLに流れてきた。
ふむ。
なぜ百合に挟まろうとする男は迫害されるんだろう?
トートロジーな答え
この件に対する私の答えは「迫害されているから」だ。
迫害されているから迫害されているという答えはトートロジー(同語反復:AはAである)的だ。
「百合の間に挟まろうとする男が迫害される」のは「百合の間に挟まろうとする男は迫害されているから」だ。
つまり「みんながそうしているから」という日本人がよくやるアレだ。
とはいえそれで話を畳むのはもったいない。
少しばかり、その根底にある百合を妨害する男へ当たりが強い理由を考えてみよう。
百合の話をしない男と百合の話に必要な男
非常に興味深い示唆を与えてくれるのが『百合が俺を人間にしてくれた』である。
当該記事は2018年5月に行われたSFセミナーの中で語られたインタビューが書き起こされたものである。
記事内の『9つのアップデート』で語られる2番と6番に注目してほしい。
2「百合の間に挟まりたい」
女性2人が仲良くしている中に俺もまぜてくれという男視点の発言ですが、これは、殺されます。
こういうことを言っている人間の話は、聞かなくていい。
6「男が出てきたら百合ではない」
最近の作品は豊穣なので、男が出る百合も成立することはわかっています。
韓国映画の『お嬢さん』は「百合の間に挟まりたい男」が出てくるものの、めちゃくちゃ強い百合で、かつその男性キャラをとても魅力的に描くという離れ業を成し遂げていました。
あと今年邦訳された『サンストーン』(G‐NOVELS )というアメコミにも、百合カップルの元彼が出てきて普通に仲良くしている描写があったりします。
引用元:「百合が俺を人間にしてくれた」-宮澤伊織インタビュー
https://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0
一見、相反するように見える2つが同じ記事に書かれているのが興味深い。
しかし、この2つは実は完全に独立した事象である。
相容れないとか同じことであるとかでなく、独立している。
上記記事のファンメイドの英訳『Yuri made me human』では該当部分が、この違いをはっきりと訳されているので非常に参考になる。
2. "I want to get in between them"
6. "It's not yuri if there's a male character"
引用元:Yuri made me human — interview with Iori Miyazawa
https://teletype.in/@kati_lilian/SJA8KwjjN
お分かりいただけただろうか?
すなわち I とMale Characterの違いである。
『百合の間に挟まりたい男』の立ち位置が作品の外にいる主体なのか、
それとも作品の中にいる構成要素なのか?
ここが百合の間に挟まれる男についての線引きになっている。
殺してもいいとまで言われる『百合の間に挟まりたい男』を何も本当に殺したいほど憎んでいる人はいないと思うが、
(いたとしても実行しない限りは内心の自由として認められるのが日本国民の人権なので問題はないけれど)
実際のところ、『百合の間に挟まりたい男』に求められているのは死ではなくコミュニティからいなくなることである。
つまり『殺してもいい』というのは『殺されてしまうから出ていきなよ』ということを表しているのだろう。
*注*
宮澤先生は「殺していい」とか「殺せ」ではなく「殺されます」という警告を発していることに注意。
2「百合の間に挟まりたい」
女性2人が仲良くしている中に俺もまぜてくれという男視点の発言ですが、これは、殺されます。
こういうことを言っている人間の話は、聞かなくていい。
引用元:「百合が俺を人間にしてくれた」-宮澤伊織インタビュー
https://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0
別の発言についての言及ではあるが宮澤先生が言うところの
である。
引用:百合が俺を人間にしてくれた【2】――対談◆宮澤伊織×草野原々
https://www.hayakawabooks.com/n/n71228eb75bb0
さて、宮澤先生が言うには『こういうことを言っている人間の話は、聞かなくていい。』
百合というものを『関係性』に見出すコミュニティに置いて、
それを無視するような発言をする『男』はそもそも百合の話をしていない。
百合の話をしていない人は百合の話をする上で参考にならないのである。
女-女における、ハイフンの部分に強く注目するのが百合であり(要出典・個人の感想です)
「女と女に自分が挟まりたい」と語る人はそもそもハイフンの話をする気がないから…ということである。
一方、女男女というキャラクター同士の関係性は、『三角関係』(単に女と女が男を取り合う構図に限らない)を形成し、女と女の間にハイフンが生まれる。
つまりキャラクターとしての男性が間にいてもそこに百合を見出すことはできるはずなのだ。
百合の女が好きな男は許されるのか?
というわけで、百合の間に挟まっている男について話にあげることは百合を語ることの範疇に含まれる。
だから「同じ話題を共有している人」として見ることができる。
でも、そうではない人。
女Aと女Bの百合の話題でなく、「女Aが好き」もしくは「女Aも女Bも好き」という人物は許されないのか?
もちろん、そのような人たちはいてもいい。
女と女を描いた作品ではなく、たまたまファンがそこにいた女と女に百合を見出すパターンもあれば、公式が女と女を「組」として売りにしている作品もある。
そのどちらの場合においても作品の外にいる主体が「挟まりたい」と願うこと自体は悪いことではない。
そのコミュニティでは何を語っているか?
つまり問題になるのはTPOの概念である。
「作品○○における百合」という○○の中でも限られた狭い特定分野の話題をする際に、
同じ○○について話す人であっても「百合」について話していなければ、それは別の話をしてる人だという線引きである。
たまたまバズワードとして「殺してもいい」という表現が出回ったが、意味するところはキック…(コミュニティからの追い出し)だ。
マイノリティの防衛とマジョリティの圧政
殺してもいいというワードの強さも相まって「話題からの排除」が間違えて伝播される危険がある。
「作品○○」が公式では百合を推しているというわけではない場合、
「作品○○における百合」を話す人たちはマイノリティである。
マイノリティ側が話し合いを楽しもうとした結果、外からやってくる「違う話をする人」は追い出す必要がある。
それを表すバズワードが「殺してもいい」である。
ところが作品○○の公式が百合をプッシュしている場合、話が変わってくる。
「○○の話をしているのに百合の話をしていないものは殺せ」というマジョリティ側の圧政へと変質してしまうと非常に危険である。
この例ではマイノリティとマジョリティが逆転する。
「殺される」=「マイノリティの話題から蹴りだされる」べきは百合の圧政をかける側だ。
「公式が百合をプッシュしている作品○○について、百合でない部分について語るマイナーなコミュニティ」での会話において「百合の話をする男」を「殺してもいい」ことになる。
というわけで…
Q.百合の間に挟まる男はなぜ殺してもいいのか?
A.殺していいはずがない。
ただし、百合というマイノリティ側の話題をしている時に挟まろうとして来るマジョリティ側の存在は話題から蹴りだした方が、マイノリティが独自文化の中で楽しく話しやすいだろう。
この『蹴りだす』行為を指して『殺す』というのがバスワードになっているという背景知識を踏まえたうえで…
『殺していい』と言われているのだ。
Q.なぜ百合の間に挟まる男は迫害されるのか?
A.現在迫害されているからである。
前述の解答における蹴りだしの延長線上のケースとして、
昨今は百合を愛でる側が増え「マジョリティによる迫害」の側面を持ってしまっている。
依然として百合の話をする場合には「話題から蹴りだしたほうがいい」けれど、
作品○○自体の話をする場からも蹴りだそうとするのは許されることではない。
許されることではないが、風潮としては存在する。
バズワードによって強められた概念がそういったローカルルールを公共の場に持ち出す土壌になってしまった。
そこにはもはや「みんなが迫害してるから」を理由に追随者が迫害する構図が生まれる。
マジョリティとなった「みんな」が挟まる男を「百合の話をするコミュニティ」から追い出すのを見て、
「コンテンツそのものから追い出されている」という受け取り方をした人が、
挟まる男をコンテンツからも排除しようとしている構図は非常に恐ろしい。
…とまあ、ここで話を終えてしまうと一見意味のありそうな講釈をしつつ実質的に何も言っていないに等しい。
煙に巻くように言葉を並べて「迫害されるのは迫害されているから」と言っていること自体はなんら変わっていないのだから。
もう一歩前進して、なぜ彼らを「殺してもいい」もとい、
『こういうことを言っている人間の話は、聞かなくていい。』
のかを考えて見よう。
それがもはや百合ではなくなるから
百合の間に男を挟む行為は百合ではなくなるからという回答はそれなりにありふれている一方で、男を挟んだ名作百合コンテンツの存在がそれの反証になっている。
では何故「百合に挟まろうとする男」の話を聞いてはいけないのか?
宮澤伊織先生と草野原々先生の対談に私はヒントを見つけた。
この中で語られる「微分は百合」の考え方を取り入れよう。
草野
微分は、xが変化したときにf(x)がどのように変化するか、ということを表している数学ですよね。
一方の女性が変化したときに、もう一方の女性はどのように変化するかを求めるのが導関数ということになります。
引用:百合が俺を人間にしてくれた【2】――対談◆宮澤伊織×草野原々
https://www.hayakawabooks.com/n/n71228eb75bb0
もちろん、すべての百合を導関数によって語れるとは思わないが、ある程度広く当てはめることはできるだろう。
あるいはこのパターンが当てはめられない=もし違っていたらを想定できないほどに強固・あるいは希薄な関係があれば、それはもはや百合だと表現してしまいそうになるのかもしれない。
何の話だったかな。
ああ、そうだった。
数式百合の話だったね。
XとYの間の関数関係において、本来「百合の間に挟まりたい男」は定数項Cでなくてはならない。
「微分って百合だな」と思ったときに導関数を求める過程で定数項Cなどと言うものが導関数に干渉してはいけない。
定数項Cの微分は0なのだから。
Xについて微分されたYからは定数項Cなんてものは消えていないといけない。
もし定数項Cが消えない何か…つまりg(x)である場合、
今まさに語ろうとしているf(x)について視点がブレることになる。
もはやそれは今までの関数とは別物だということになる。
関数百合の立場に置いて、変数のパラメータをどのように変化させても、
共通認識である関数…つまり百合の存在によって2つを語り直せる。
女Aと女Bの百合である関数Fがあれば、
中世ファンタジーの登場人物である女Aがもし現代の不良女子高生だったら…?という問いに対して、女Bが担任の教師なのかクラスの委員長なのか憧れる中学生なのか、その立ち位置を見定めて盛り上がることができる。
関数Fと定数C
百合の間に挟まりたい男は定数Cである。
百合は微分であるという考えに沿って考えた時、定数Cというxの0乗の係数は導関数の中でその存在を無に帰すことになる。
定数Cは無に帰すので逆説的に好き勝手に入れればよい。
しかしそれはxの0乗なので導関数について話す場では意味を持たない。
だから「百合に挟まれたい男の話は聞かなくていい」のだ。
結論が一足飛び過ぎただろうか?
自分の中でロジックが見えると説明を飛ばすのは私の悪い癖だ。
説明を入れていこう。
問1
関数Y=x^2+3x+C (Cは定数とする)について考える。
この関数を導関数の定義に基づいて微分せよ。
問2
問1で求めた導関数について考える。
うんぬんかんぬん…と続く数学の問題に挑む時に、
定数Cは0だろうと42だろうと53万だろうと35億だろうと5千兆だろうと関係ない。
問2を解くにあたり、「定数Cがもし35億だったら?」とか、「例えばCが負の値だったら?」とか「Cが少数なら?」とか言っている人は、そもそも問2の議論にあがるに十分な視座を共有していない。
定数項Cがそれらのどれであろうと、問題には何も変化はない。
「どうでもいい数」をまとめて定数項Cと置いているのだから。
いわんや「Cがxの関数である場合はどうだろう?」などと言いだす奴はそもそも話が通じていない。
*注意*
話が通じていないということは必ずしもその相手があなた方より劣っていることを意味しない。
「Cがconstantである」ということは文脈依存であることから、別の文脈で語る人はあなたに劣っているわけでなく、前提が上手く共有できていないことで話がかみ合ってない状態にいることのみを示しているにすぎない。
なので微分問題を解こう(百合の話をしよう)という時に定数C(俺)の話を入れてくる男は、微分問題を一緒に解く気がないので「話を聞いてはいけない」のだ。
Cがxの変数だったら?と言い出す奴は問題が読めていないし、
Cがxの変数であるならf(x)が最早同じ形のものとして彼と私たちは認識を共有できていない。
なので『そういう人と一緒に問2を考えるべきではない』
これをバズワード的に表現したのが『百合の間に挟まる男は殺してもいい』である。
それでも関係がそこにある
百合と言う微分問題に挑む時、あなたは定数Cでなくてはならない。
定数Cでさえあればどんなあなたでも良い。
一方で、あなた…つまり定数Cがxの関数であってはいけない。
本当にあなたという存在は定数Cなんだろうか?
あなたは(x,Y)と同じ世界にあって、それでもxに依存しない定数項でいられるだろうか?
これを思いついたとき、僕はぞっとした。
何故か?
それはこの問いは既に先ほどの微分百合の記事に書かれているからだ。
今ようやく私は「人間」の視座に至ることができた。
「あっ、人間が来た!」
実際のところ、あなたがxに影響されようともYに影響されても問題はない。
単純にあなたが定数C
…つまりYに影響するxの1次以上の項でなければいいのだから、単純な話である。
ところがそうはいかなくなってきた…というのが宮澤先生が微分百合の直後に語った内容である。
宮澤
というか……われわれのことは気にしないで、誰にも目の届かないところで幸せにやっていてほしいなという気持ちになってくるんです。
とくに、バーチャルYouTuberの場合は、百合オタクの文脈を知っている方がバーチャルYouTuberになって、百合をやっているという場合も多いので。
ロシア的倒置法でいうところの「ソビエトロシアではキャラクターがあなたを観る!」みたいな。
われわれの観測が対象に影響を与えることへの恐れというか、仲がいい女性と女性が「これは百合だよね」とキャッキャすること自体に、他人の関係を勝手にカテゴライズしてしまったことへの罪悪感があるんですよね。
それがバーチャルYouTuberでは露骨になって、みんな言葉を失っていくわけです。
とはいえ、これはごく一部の限界オタクしぐさでしかなく、創作ジャンルとしての百合はまだ発展途上で、今後もどんどん広がっていくと思います。
限界オタクの言うことをあまり真面目に聞くのもどうかと思いますね(なぜか半ギレ)。
引用:百合が俺を人間にしてくれた【2】――対談◆宮澤伊織×草野原々
https://www.hayakawabooks.com/n/n71228eb75bb0
何と言うことでしょう!
ここまで記事を理解してくれた人ならわかるでしょう?
つまり宮澤先生はこの時点でxとYの関数である我々をYが観測し自分とxの間の関数に組み込んでしまうことを危惧しているのである。
元記事にこそ明言されていないが、
2つの話が連続して1つの記事の中に並べられていることから2人の作家さんたちの間では、それが感覚的なものにしろ理論的なものにしろ繋がっていたに違いない!と私には読める。
そういうわけで宮澤先生が至った境地と言うのが観測できない百合というフレーズである。
観測できない不在の百合とはどのようなものなのか?
元記事の締めを読んで頂いた人にはもうその先がお分かりだろう。
ここ最近の流れとして、『裏世界ピクニック』は大好評でシリーズ化・漫画化され、草野さんの「最後にして最初のアイドル」も42年ぶりに新人のデビュー作で星雲賞を受賞。
「百合が俺を人間にしてくれた」の記事も爆発し、今日もこれだけ多くの方々にお集まりいただけて……こちらとしても、さすがに百合SFの勢いを無視できなくなってきました。
というわけで――SFマガジンで、百合特集をやりたいと思います。
という両作家の作品を担当した編集・溝口力丸氏の発言につながり、
「関数百合」と「観測できない百合」をお題に短編を1本書くことを2人が約束させられる。
そういう運びになった。
引用:百合が俺を人間にしてくれた【2】――対談◆宮澤伊織×草野原々
https://www.hayakawabooks.com/n/n71228eb75bb0
結び、そして宣伝
そんな作家先生2人の短編が収録された百合SFアンソロジー『アステリズムに花束を』が好評発売中である。
アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー (ハヤカワ文庫JA)
「関数百合」と「観測できない百合」を両先生がどう描いたのか…実際に読んで確かめてほしい。
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