10年前に書かれた名作百合SFライトノベル『紫色のクオリア』がBOOK☆WALKERの「月額720円で角川ラノベ読み放題」入りしています。
で、この720円。なんと2020年1月までは無料キャンペーンで0円になるので、
今なら無料で読めちまうんだ!
*この記事は以前kindle半額サービスだった時の布教記事でした。現在キャンペーンは終了しています*
その上、どうやらこのタイプの読み放題では1P読まれるたびに作者に報酬がいくシステムになってるらしいので既読の人もお財布を傷めずに作者にお布施ができちゃう!
紫色のクオリアは1巻完結の文庫本なので分量も多くなく、1冊で綺麗にまとまっている。
「発売されることのない2巻への引き」などもなし。ちゃんと終わる。
だから安心して勧められるし、安心して読める!
電子書籍で買うなら台風の中、古本屋さんに足を運ばなくていいし、
台風で外出できないこの週末は『紫色のクオリア』で読書の秋を楽しもう!
雪が降って外出したくなくなる季節になってきたね!
2019-2020の年末年始に『紫色のクオリア』を読もう!
というわけで今回の記事は『紫色のクオリア』の布教をしよう。
『紫色のクオリア』ってどんな本?
コミカライズ版も出ていて、こちらは全3巻。
SF作品としての評価が高い傑作ライトノベルとして、その筋では有名。
その筋ってどの筋だよって感じだけど。(百合SF界隈か?)
昨今の百合SF隆盛の流れは凄くて『アステリズムに花束を』のような短編集も出てるわけですが、実際のところそういった作品は「最近になって表れた」ものなどではなく、『ハーモニー』や、この『紫色のクオリア』などの作品に触発された若い感性が10年経って実を結びだした、あるいは読者の側として20代の購買層に回った…その1つの結実なのではないか?…と僕は思っています。
そう考えてしまうのは僕が20代だからであって、実際のところ10代の人も30代の人も40代の人にも、それぞれ自分なりの理解や解釈があって、結局のところ「百合SF」が世代関係なく流行っている…というのが実情なのかもしれないけど。
(そうじゃないかもしれない)
失礼、脱線した。
何の話だったかな?
あー。そうだ、『紫色のクオリア』が百合SFだという話だったね。
『紫色のクオリア』ってどんな話?
では作品の中身の話を。
この話のカギとなる人物、「毬井(まりい) ゆかり」は特殊な視座を持つ少女だ。
彼女の目には「人間」が「ロボット」として映る。
何を言っているんだ?と思ったり、『沙耶の唄』を連想したりと、
まあ色々な反応があるかもしれない。
で、そんな「変な見え方の女の子、ゆかり」とひょんなことから廊下で衝突してキスしてしまった女の子、『波濤 学(はとう まなぶ)』を主人公に物語は回る。
他にも魅力的な女性キャラクターが出てくる。
「毬井とガクちゃん(学のニックネーム)」という2人だけでなく、他の女の子との組み合わせにも百合を感じさせる場面は多く
(っていうか、逆に言わせてもらえば百合要素がないシーンのほうが少ないと言っても過言ではない流石に過言でしょ)
この作品は話の運び方が非常にうまくて、
SFものにありがちな「パワーインフレ」の過程が簡潔に、でも丁寧に描写されていく。
もしこれが「シリーズ作品」であったなら1冊の半分くらいを割いても良さそうな大きなイベントが、1巻完結の本作品では さらっと短い段落にまとめられる…といった簡潔さ。
全体の構図として「シリーズ作品」としての大きな流れがあるかのような「段階を踏んで徐々に特殊能力の応用を覚えてインフレしていく」展開を描く筆致の丁寧さ。
一見、相反する二軸を見事に両輪として回す「簡潔と丁寧」の両輪の回し方が非常にうまく、そのさっぱりとした読み味と主人公である「ガクちゃん」の性格・性能がぴったりと噛みあっている。
類似の「壮大さ」「主人公の拡張性」「偏在化」の理屈で言うと僕は「幻想再帰のアリュージョニスト」を連想せずにはいられない。
(いや、お前はそうやってすぐになんにでもアリュージョニストを見出すな…というのを差し置いても、インフレや順応感に似たものを感じる)
しかし、アリュージョニストが現行未完で書かれ続けているうえに、その文量が圧倒されるほどのものであるのとは対照的に、
紫色のクオリアはライトノベル文庫1冊分という小世界に詰められてすっきりと終わっている点に注目したい。
圧倒的な話の広がり具合やパワーインフレを、壮大なシリーズものにせず1冊に収めるという手法は「ワイドスクリーン・バロック」というジャンルを思わせる。
ワイドスクリーン・バロックの条件のひとつに壮大な世界規模の話を短くまとめることが含まれているというだけで、その他の条件などとの兼ね合いから『紫色のクオリア』はワイドスクリーン・バロックでないという考えもあるだろう。
実際この作品がワイドスクリーン・バロックであるかを自信を持って僕は議論することができないので、ここでは「ワイドスクリーン・バロックっぽさ」というだけにとどめておく。
この作品そのものがワイドスクリーン・バロックかどうかは脇に置くにしても、ワイドスクリーン・バロックの影響を受けていることは、まず間違いないだろう。
作中に出てくる「由来が定かではない用語」であるジョウントという言葉のメタ的な由来が、
ワイドスクリーン・バロックの決定版とまで呼ばれた『虎よ、虎よ』に出てくる「ジョウント効果」がであることや、
金髪幼女(金髪幼女ではない)のアリス・フォイルの名字「フォイル」が『虎よ、虎よ』の主人公ガリヴァ―・フォイルから取られたものであることも踏まえれば、
「影響を受けた」というよりも作者うえお久光先生なりの「百合を元に虎よ、虎よオマージュの作品を書く」というアプローチなのではないだろうか?
知らんけど。
もしかしたら、作者には別の考えがあったかもしれない。
知らんけど。
そう、「知らんけど」なのだ。
わからないのだ。他者の考えを推察することはできても同じ視座に立つことはできないのだ。
じゃあ、同じ視座に立てない誰かを自分が好意的に思ったとき…
そんな時にどうするべきかということをラストにすっきりと提示させてインフレ仕切った物語の風呂敷を畳んでいく。
『紫色のクオリア』の魅力はやはりそこのまとまりにこそあるんだと思う。
広げたSFの大風呂敷を、「百合=女と女の関係」に立ち返ることで文庫1冊の短い話に収めきった『百合SF』というわけだ。
10年前の作品とは思えないほど豊かな百合SFを楽しんでみてはどうだろうか?
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