バーチャルVtuver豆猫さんの与太話

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【映画布教】「『1917命をかけた伝令』は全編ワンカット撮影」のウソ

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久しぶりに映画館で泣いた。


ぼろぼろと涙があふれて、泣き顔のまま部屋を出た。


「ありがとうございましたー!」と声をかけるスタッフにもしっかり泣き顔を見られたし、帰る前に売店でパンフレットを買ったときも、まだ涙が細く顔を伝っていた。
スタッフの方々に怪しい客だと思われたか、感動して泣く気持ちに共感してもらえたかは定かではない。
(このような場合、スタッフが考えているのは大抵どちらでもなく、『早く今日のバイト終わんねーかな』である)

 

『 1917 命をかけた伝令 』

 

さて、今回見てきた映画はこちら。

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サム・メンデス監督作

『1917 命をかけた伝令』である。

 

 

どんな話?

 

第一次世界大戦、2人のイギリス兵の物語。
味方兵1600人が敵の罠にかかり、無謀な攻撃に及ぼうとしている。
主役であり伝令役を担うトム・ブレイクは彼らにその事を伝えて突撃をやめさせる任務を将軍から言い渡される。

 

明朝の作戦決行までに彼はなんとしても前線までたどり着き指令を伝える必要がある。
それができなければ、1600人の味方兵の命はない。
そして、その1600人の中には…トムの兄ジョセフも含まれている…。

トムは自身と同じ部隊に所属するスコ(ウィリアム・スコフィールド)を連れて、

たった2人だけで戦場を抜けて兄を含む1600人を救うために走り続ける。

 

 

全編ワンカット

 

この映画は第一次世界大戦を描いた戦争映画…ということになるんだと思う。

僕は戦争映画というものを見たことがなかったし興味もなかった。
プロパガンダ的とでも言うか、強い政治主張が混ざっているような気がして、
見たいと思えるような追加要素がなければ戦争映画を見ることはなかったと思う。

 

『1917』のプロモーションは追加要素として『全編ワンカット映像』というのを売り込んでいた。

驚愕の全編ワンカット映像による 
ほんの一瞬先すらも予測できない緊張感

常に主人公のそばにいるかのような臨場感

〈命がけの壮絶なミッション〉に同行せよ

 引用:ABOUT THE MOVIE|映画『1917 命をかけた伝令』公式サイト

 

この『全編ワンカット映像』というのが見たくて、僕は普段全く興味のない戦争映画を見に行くことを決めた。

さて、全編ワンカットとはどういうものを指すのか?

 

通常、映画は場面転換に合わせて映像を切り替える。

例えば役者の台詞が

「この辺にぃ、美味いラーメン屋の屋台、来てるらしいっすよ。行きませんか?」

「ああ、行きてえなあ」

「じゃけん夜行きましょうね~」

と続いたとして、まさか本当にラーメン屋まで歩いていくシーンを映したりはしないだろう。

移動のシーンはカットされ場面が切り替わり、
次のショットは恐らくラーメン屋の屋台で彼らがラーメンを食べているシーンになる。

 

そうすることで映像にメリハリがつくし、余分なシーンを省くことで映画のテンポも良くなる。
だから普通の映画では映像をカットしていくつものシーンを切り貼りした映像作品が作られる。

 

しかし、ただシーンを切ればいいと言うものでもない。

あえてカットを減らしてひとつづきのシーンを多めに撮ることで緊張感などを高める技も存在する。

この技法を長回しと呼ぶ。

 

「全編ワンカット」とはつまり、この1本の映画が頭から尻尾まで一続きの長回し映像であることを意味しているのだろう!

 

 

全編ワンカットウソ

 

先に結論から言うと、『1917』全編ワンカットではない

登場人物の感情の流れや臨場感を表現する<長回し>として多くの監督が【ワンシーン ワンカットの撮影】を取り入れてきた。
本作では、2人の主人公たちの行動に寄り添い、究極の没入感を表現するため、
約2か月の撮影期間を経て【全編を通してワンカットに見える映像】を創り上げた。 

 引用:ABOUT THE MOVIE|映画『1917 命をかけた伝令』公式サイト

 

公式ホームページにも書かれているとおり、実際には映像はワンカットではなく、複数のシーンから出来ている。
それぞれ個別のシーンは確かに長回しの手法で撮られているけれど、それらの映像を一見途切れることなく接続することで【全編を通してワンカットに見える映像】を創り上げたのが『1917』である。

 

あと途中でキャラクターの意識が途切れて視界がブラックアウトする演出があるので全編ワンカットじゃないじゃん。今、完全にシーン切れてたよ」と言いたくもなる。

 

はっきり言ってしまえば「全編ワンカット」という広告はちょっとばかり誠実ではない誇大広告とも言える内容なのだ。

 

しかし、ここで忘れてはいけないのはそもそもなぜ「ワンカットの長回し映像」を使うのかということだ。

たしかに「全編ワンカット」と言うのは嘘だけれど、この映画が長回しを多用した映画であるというのは事実だ。

長回しシーンの連続は厳密な意味での全編ワンカットではないけれど、長回しによる演出効果はちゃんと発生している。

 

長回し技法の多用が、観客を主役の2人と同じ時間の流れにいるかのような錯覚に陥らせる。

 

実際、映画の時間と2人の伝令が移動する時間は同じではない。
彼らは6時間以上かけて前線まで移動を続ける。

 

映画の尺が2時間である以上は本当の意味で彼らと同じ時間を過ごすわけではない。

当然そこには嘘がある。

 

しかし監督はその嘘を演出する。

可能な限り観客が彼らと共に体験できるように映画を創り上げる。

 

引き込まれるような没入感と一瞬の油断が命取りとなる緊張感が「全編ワンカットに見える映像」という虚構のなかに息づいている。

 

たしかに広告は虚偽だ。

作られた映像効果も偽りの体験だ。

それでも真に迫った時間の流れを観客はリアルに味わう。

 

「全編ワンカットなのはウソだが全編ワンカットに劣らない強さがある作品」なのだ。

 

 

奇妙な例えだが、算数の問題に例えよう。

 

問1

ここにリンゴの入ったカゴが5つあります。

それぞれのカゴに入っているリンゴの数は、どれも2つずつです。

リンゴは全部でいくつあるでしょう?

 

当然、小学校を卒業しているならこの問題は解けるだろう。

2×5=10リンゴは10個ある。

 

だが、ある子どもは違う考え方をした。

2+2+2+2+2=10だからリンゴは10個だと答えたんだ。

 

「この子はかけ算ができる!」と紹介したならそれはだ。

この子はかけ算を使って解いたわけじゃないんだから。

ただし、「この子は問題を解けたか?」と問われれば答えはエスだろう。

確かに解き方は違う。

しかし、ちゃんと答えの「リンゴ10個」を求めることができている。

 

日本の広告プロモーションが、『1917』全編ワンカット映像!」と語るのはだ。

しかしサム・メンデス監督は『1917』で臨場感と緊張感を観客に与えられたか?」と聞かれたら、僕はエスと答えるだろう。

確かに、解き方は違う。しかし結果はちゃんと出ているのだ。

 

 

等身大の兵士

 

臨場感を更に高めるのがカメラの動きだろう。

カメラ…つまり観客の視点は、ずっと主役たちの側に張り付いている。
まるで自分たちもその場にいるかのようなカメラワークが深い没入感を生む。

 

どこかで戦ったヒーローでなく、第一次大戦の時にいたであろう無名の誰か、僕たちと同じような一般人として生きた当時の兵のひとりなんだと主役が凄く近くに感じる。

 

超人的なヒーローなどいない、ただ誰もが戦争と言う大きな渦に振り回されて先の見えない不安やどこから襲われるか分からない恐怖にひりつく。

 

「当時の一般人」である軍人たちの疲弊した空気や、余りにも近くに感じる死の香り。

 

僕は戦争映画と言うものを見たことがないので、戦争映画と言うのはもっと士気高揚のために「敵軍をバンバン殺せ!」みたいな感じでアクション映画のように英雄的な活躍を扱うものだと誤解していた。

しかし、過去の戦争を扱うということは戦争の苦しさを描くことでもあるのだという基本的な見方が僕には欠けていたらしい。

 

戦争を賛美するような感じではなく、その中で「普通の人」として兵士たちを人間っぽく描いているように僕には見えた。

 

「お国のため!」のような漠然としたものに命を賭けるのでなく、「兄のため」「友のため」という等身大の思いが宿ったキャラクターたち。

分かりやすい思いはカメラワークによる視点の近さと重なって彼らを身近に感じさせる。

 

この映画は「最後まで2人をカメラが追い続ける映画なんだ!」と見ていて思った。

 

戦場では人が死ぬ

 

最初に映画を見始めた時に、主人公のトムと友人のスコの2人組が主役だと分かった。

 

友人スコの周りには何度も死につながるような陰りがさす。

有刺鉄線で傷ついた手を死体のすぐそばに近づけた時、あまりの「衛生感のなさ」に僕は死のにおいがよぎるのを感じた。

しかし、死の香りはその後でより強烈になる。

 

スコが水筒で自分の手を洗い包帯を巻き治療するシーンがちゃんと後で入ってきたのだ。

 

「スコに衛生感がない」のではなかった。僕に危機感が足りなかったのだ。

 

確かに怪我をした時も死体のそばに忍んだときも、周りに敵兵は見えなかった。

しかし見えないということはいないということではない。

 

いつ物陰から銃撃されてもおかしくはない。

ほんの少しの安全を得られるまで、手を治療することすら隙になる。

 

その後もスコの周りには何度も死の危険が訪れる。

そして物語中盤に彼の意識は途切れる。

全編ワンカット風映像もここではっきりと暗転する。

 

主役であるトムスコと永遠に分かれることになってしまう展開に、僕は驚いた。

これだけ映画全体を通して死が近いと感じていたのに、

自分はどこか「2人は主役と友人なので無敵なのだ」と楽観視していたように思う。

死の匂いがどれだけスコの近くを彷徨っても、彼が死ぬことはないのだと思い込んでいた。

しかし、2人の別れで僕はCMのクライマックスシーンを思い出す。

たった1人で戦場を駆け抜ける男のシーンだ。

 

そうか、既にCMで答えは出ていたのか。

 

『1917』は最後までカメラが2人を追い続ける映画ではなかった。

2人は1人になる。

それでも、それでも、立ち止まることは許されない。

止まっていては味方兵1600人の命が失われる。

 

それは友軍戦力1600ポイントを失うということではない。

彼のように。彼のように、生きていた誰かが死ぬ。

その悲劇が1600回繰り返されるということなんだ。

 

そしてその内の一人は、トムの兄ジョセフだ。

 

その意味を観客は改めて痛感することになる。

走れ、走れ、走れ!

 

なんとしても、ジョセフを。ジョセフと共にいる隊員たちを救うのだ。

 

結末はあなたの目で見てほしい。

僕は自分の家族に想いを馳せてぼろぼろと泣いた。

 

久しぶりに映画館で泣いたのだ。

 

『1917 命をかけた伝令』はプロモーションこそ少し盛り過ぎではあるが、

その盛り過ぎたプロモーションが無ければ見なかったかもしれない。

この記事ではプロモーションのウソを暴いた。

しかし、暴いたうえで僕は言おう。

『1917』、おススメの映画です」

 

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