バーチャルVtuver豆猫さんの与太話

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【読書感想文】令和文学のクソデカ金字塔で読み解く羅生門【#クソデカ羅生門】

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クソデカ羅生門について今更なにか説明することもないだろう。

1週間ほど前に匿名でネットの海に放流されネットミームとして(恐らく作者が思いもしなかった勢いで)広まった『芥川龍之介羅生門』のパロディである。

 

anond.hatelabo.jp

 

ネットにはこの怪文書を読みあげオモチャにした動画・音声がいくつも投稿され、

「令和文学のクソデカ金字塔」と称える人までいる。

 

このクソデカ羅生門の読み上げをリピート再生して子守唄代わりに聞きながら寝るのが自分の最近の日課である。

そうして毎夜クソデカ羅生門を聞き続ける中で、今更ながら気づいたことがある。

芥川龍之介羅生門、めちゃくちゃ面白いな…」

 

多分、高校時代に熱心に国語を学んだ方々からすれば「こいつは今更何を言っているんだ?」と馬鹿にされる周回遅れの感想かもしれない。

 

それでもクソデカ羅生門のおかげで自分のような学のない人間がようやく羅生門の話の構造をちゃんと理解できて、芥川龍之介がなぜこんなにも有名な小説家なのかを分かったのだから感謝するほかない。

 

さて、ここで芥川龍之介羅生門について改めて説明しよう。

今昔物語集に載っていた話を元ネタとして原文の『羅城門登上層見死人盗人語』芥川龍之介があることないこと書き足して20代の時に発表した小説である。

 

高校の教科書で自分がその成り立ちを聞いた時に真っ先に思った感想は「パクリじゃん…」だった。

他人からパクった話で日本文学史に残る小説家として称賛されるなんて人生イージーモードすぎるだろ。

 

当時はかなり反抗的な生徒だったので、羅生門と芥川に対してそういう舐めた態度を取っていたのだ。

そんな私に国語の先生が熱く「芥川はそのまま今昔物語を訳したわけじゃなくてうんぬんかんぬん」とか語っていた気がする。

 

国語の先生がやたら力を入れて教えていた羅生門

その本当の面白さをよく知らないまま、休み時間になれば先生が羅生門を語るときのモノマネをしてふざけていた。

 

『いいですか? ニキビは若さの象徴です』

 

いまだにぐっと力を込めてそう言った先生の言葉が頭に残っている。

というか、それをモノマネしていたクラスの人気者が頭に残っている。

 

このニキビというのは羅生門の主人公である下人(げにん)のほっぺについたニキビのことだ。

面皰にきびのある頬である。

引用:芥川龍之介 羅生門

 

先生が「なぜ芥川はしつこくニキビについて書いたかわかりますか?」と生徒を指名し聞いた。

誰もなかなか答えられず「不潔だって言いたかった」「不細工だと言いたかった」といった回答が出て、そのあとで先生が示した回答が『若さの象徴』だった。

若いうちにできるニキビをたびたび描写することで主人公がまだ大人になりきっていないことを示していたのだという。

 

「わかるわけないじゃん…若いって言いたいなら若いって書けよ…」

 

さて、そんな羅生門の面白さをちゃんと説明できないまま高校を卒業してしまった自分でもクソデカ羅生門は楽しく読める。

 

ほとんど原文の形を維持したままで、言葉をひたすら大げさにする笑いは、馬鹿な自分にも理解できる。

元の羅生門今昔物語をパクリつつも、原文にないことを書き足して傑作と評されたのなら、羅生門に書き足したクソデカ羅生門だって傑作と言って構わないだろう。

 

そうして何度も何度もクソデカ羅生門の読み上げを聞き続けるうちに突然その構造がすっと頭にしみこんできた。

 

今昔物語

羅生門

クソデカ羅生門

この3つを比べ、それぞれに書き足された部分を読む事で芥川がいかに日本文学史に残る小説家として評価されるのかを知ることができる。

 

注目したいのは主人公である下人(げにん)
の描写である。

芥川が主人公を描いたときに今昔物語に書き足したプラスアルファの部分が

クソデカ羅生門全体に見られる過剰な修飾によって、さらに大げさに書かれることで浮かび上がる。

 

クソデカ羅生門において下人(げにん)を指す言葉はその振れ幅がとても大きくなっている。

のちに剣聖と呼ばれる最強の下人

引用:クソデカ羅生門

などかなりヒロイックでかっこいい描写があるかと思えば、

とんでもなく赤く膿を持った巨大な面皰(にきび)の大量にある頬  

 引用:クソデカ羅生門

と言ったおぞましい描写もある。

 

若さの象徴であるはずのニキビが化け物じみた醜悪な容姿に聞こえてくる。

芥川が作中に些細な表現として取り入れた下人(げにん)が持つ二面性がクソデカ描写によって浮き彫りになっているのだ。

ここで原点である今昔物語ではこれらの剣聖だの化け物だのの描写がどうなっているか該当箇所を読んでみよう。

  

引用?:羅城門登上層見死人盗人語

 

…読んでみようも何も該当する箇所など今昔物語にはない。

今昔物語ではこの人物に剣聖でも化け物でもない単なる盗人なのだから。

 

しかし芥川が書き足した羅生門において、時に強くヒロイックに、時に醜悪に描かれる主人公を、クソデカ羅生門は過剰に誇張していく。

 

特に注目したいのがこの部分だ。

 

この時、誰かがこの最強正義の体現たる下人に、さっき門の真下でこの性根の腐ったドブ男が考えていた、超苦しい饑死をするか世界最強の盗人王になるかと云う世紀の大問題を、改めて持出したら、恐らく清廉潔白超高潔下人は、マジで何の未練のカケラもなく、本当にめちゃめちゃ苦しい饑死を選んだ事であろう。

引用:クソデカ羅生門

 

「性根の腐ったドブ男」が「最強正義の体現」へと変わる名文である。

このまま飢えて死ぬか、生きるために盗人となるかを悩み、

結論を保留しつつも、なんとなく答えは「盗人」になるほうだと思っていたドブ男が、正義の心へと目覚める。

 

一体何が起こったのか?

彼をかくも素晴らしい「最強正義の体現」に至らしめるきっかけとなった出来事とはなにか?

 

下人に何か変化があったわけではない。

ただ彼は「死体を漁り髪を抜く老婆」という不気味な存在を目にしたのだ。

 

下人の巨眼は、その時、生まれてはじめてその激臭死骸の中に蹲っている最低最悪醜悪人間を見た。 

 引用:クソデカ羅生門

 

先ほどまで悪に傾きかけていた男が、自分よりもはるかに悪そうな老婆を見たとたん、

突然「清廉潔白超高潔下人」として覚醒し、老婆は「最低最悪醜悪人間」となる。

 

この男の中の男あらゆる悪を世界一憎む心は、(中略)最高級松の巨大木片のように、超勢いよく燃え上り出していたのである。 

 引用:クソデカ羅生門

 

しかし、この時点ではまだ老婆が本当に「最低最悪醜悪人間」かどうかはわからない。

ただそう見えたというだけで善悪のジャッジをできるほどの情報はそこにはまだない。

 

 大馬鹿で学のない下人には、勿論、何故糞老婆が死人の髪の毛を抜くか本当に一切わからなかった。

従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいかマジでまったく全然知らなかった

しかし馬鹿下人にとっては、この豪雨の聖夜に、このクソデカ羅生門の真上で、大死人のぬばたまの髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に絶対に許すべからざる世界最低の悪の中の悪であった。勿論、クソアホ下人は、さっきまで自分が、世界一の大盗人王になる気でいた事なぞは、とうの昔に忘れきっていたのである。

  引用:クソデカ羅生門

 

ジャッジのできない身でありながら下人は自分のことは棚に上げ、老婆を断罪する正義に燃え上がる。

羅生門は大正4年に書かれた作品である。

しかし、このような下人の振る舞いは令和となった現代のインターネットでも頻繁に見かけるものではないか?

日本人の…いや全世界全人類の変わらぬ愚かさを描くこれらの描写を、芥川は原点の今昔物語に書き足した。

芥川が単なるパクリ野郎ではなく高名な小説家として評価されている理由はまさにこの書き足しにこそあったのだ。

 

老婆が自身の行いを正当化する「この死体も、生前は暮らしていくために悪事に手を染めていたのだから、自分だって許されるはずだ」という言い訳をきき、下人は再度豹変する。

これを聞いている中に、下人の史上空前に邪悪な心には、あるクソデカい勇気が生まれて来た

それは、さっきクソデカい門の真下で、この腑抜けカス男には全く欠けていた勇気である。

そうして、またさっきこの馬鹿でかい門の真上へ瞬間的に上って、この老婆を人間離れした動きで捕えた時の勇気とは、全然、完全に反対な方向に動こうとするデカ勇気である。

  引用:クソデカ羅生門

 

悪事を働く相手を前にして、一時は正義の心に燃えた男が「悪人に対しては悪さをしてもよい」ととれる言い訳を聞いてから、心に「クソデカい勇気」を持つ。

 

「超苦しい饑死をするか世界最強の盗人王になるかと云う世紀の大問題」に対して、

躊躇なく餓死を選ぶことのできる正義の勇気ではない。

それとは真逆の「盗人王になる」ことを決断するクソデカい勇気である。

 

芥川龍之介羅生門で書き足したのは今昔物語では単なる盗人にすぎなかった男の内面だった。

どこにでもいそうな男の心のうちで犯罪に手を染め自身を正当化する「勇気」が湧いてくる心の移り変わりを描いたことで、芥川は日本文学史に名を遺した。

 

クソデカ羅生門は高校生のころに適当に受けた授業で見逃した羅生門という名著に再び向き合うきっかけとなり、あの頃はきちんと読み取ることのできなかった下人の機微をクソデカ構文で誇張することで浮き上がらせてくれた。

 

また際限なく誇張する一方で決して手を加えすぎなかった部分もある。

しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。

引用:芥川龍之介 羅生門

 

羅生門において芥川は下人が盗みを罪と思わずに行う勇気を描いた一方で、老婆を決して殺しはしなかった。これは何も下人に何か良心のようなものがあったということではなく、殺す勇気まではわかなかったことの表れだろう。

クソデカ羅生門においても、たびたび下人の強さを描写して過剰にしておいてなお、

ここで「死んだように倒れていた老婆」を「完全に死んでしまった老婆」のようにはしなかった。

 

今昔物語に芥川が書き足したことで生まれた大正文学の名著羅生門

その本質を損なうことなく書き足されたクソデカ羅生門もまた、クソデカい誇張抜きに和文学のクソデカ金字塔なのかもしれない。

 

参考サイト

クソデカ羅生門

芥川龍之介 羅生門

巻29第18話 羅城門登上層見死人盗人語 第十八

羅生門 (小説) - Wikipedia

 

 

omamesensei2.hatenadiary.jp