TwitterのTLに「モアイ」についてのツイートが流れてきた。
ツイートそのものへのリンクを張った方がフェアなのかもしれないけど、以前このブログで知らない方のツイートを引用して記事を書いたときに、「それは晒し行為じゃないの?」と批判があった。今回の記事内容は性質上、晒しの側面が出てしまいそうなので当該ツイートを引用することは控えます。
さて、ツイートの内容は
「初めてイースター島のモアイの顔より下の部分の調査がされた」
「モアイ像の下からは胴体が発見された」
「モアイは全身像であり手足があった」
などの情報が画像付きでツイートされている。
で、問題の「胴体のあるモアイ」のツイートが結構バズっている。
1万リツイートくらい伸びてるのだ。
なんで???
(記事を書き上げてから確認したら2万RT超えてた)
「なんで、これバズってるの? モアイに胴体がついていることなんて常識じゃないの!?」
もちろんリツイート=賛同とは限らないので、
引用リツイートで「今更なぜこんなツイートを?」と疑問視する声も含まれているとは思う。
だからこのツイートがバズっていることが「モアイ像に胴体があると知らない人」が1万人いたということを直接意味しているわけではないだろう。
そうは言っても。そうは言ってもだ。
このツイートの伸び方、バズり方やリプライツリーを見る感じ、
僕が常識だと思っていた「モアイには胴体がある」という情報に新規性を感じる人たちがいるみたいなのだ。
『なぜ今さらモアイの胴体の話がバズるのか』ということに今回の記事では焦点を当てていこうと思う。
1.なぜ今さらモアイの胴体が見つかったのか?
元のツイートでは「はじめてモアイの下を掘って調査した」と書いてあった。
なぜ今さらモアイ像の下を掘ったのだろう?
発掘調査は考古学者がやる基本的な調査のひとつのように思えるし、2020年になるまでやっていなかったというのは不自然に感じる。
この理由はシンプルで「このツイートがガセだから」である。
モアイ像の下から胴体が見つかった調査はもう20年近く昔の話であり、
1999年の時点で科学雑誌Newtonではツイートにつけられた発掘調査の様子は触れられているという話も出てきた。
少なくとも20年以上前には、この胴体のあるモアイの写真は存在した可能性が出てきたわけだ。
そうなればこのモアイの画像を引いてきて「新発見」であるかのようにツイートするのはどうにも怪しい感じがする。
というか、この画像どこかで見覚えがあるんだよね…。
とりあえずモアイについて検索してみたところ…
見つけた、ここのサイトだ!!
このサイトは前から楽しく読ませてもらっている自分のお気に入りのWebサイトだ。
オーパーツやUMA、都市伝説に対して真摯に取り扱ってるサイトで、
そのあたりその辺りの「よく言えばロマン」「悪く言えばデマ」みたいな物事に対して参考文献を挙げながら論理的に向き合って記事を書かれている。
伝説を真っ向から否定して切って捨てるのでなく、「本当にあったらいいな!」という気持ちを持ったまま、嘘や誤情報については指摘していくフェアな姿勢が本当に素晴らしい。
『超常現象の謎解き』で「モアイは宇宙人がイースター島の人々に作らせたものである」というロマンと怪しさに満ちた説に対して向き合った回があり、
その中で件の画像に非常に良く似た画像も登場している。
前述の通り、『超常現象の謎解き』は参加文献の表記がしっかり記されたサイトであるため、そこから画像の出どころを知ることもできた。
出展として示されているのはHeyerdahl『Easter Island the Mystery Solved』
どうやらノルウェーの人類学者ヘイエルダールの著作に載っているようだ。
また、参考資料として先述のニュートン誌も紹介されている。
『Newton』(ニュートンプレス、1999年3月号)
こちら、バックナンバー | ニュートンプレスの方でも古すぎて見つからなかったので
Google先生に頼ってみると書影が見つかった。
ばっちりモアイの胴体が映っている。
「モアイに胴体が付いていること」はガセではないけど、「それが新発見である」という部分はガセ。もう前世紀に明らかになってる。
『超常現象の謎解き』によれば問題のツイート画像のモアイは
これは通称「ピロピロ」と呼ばれるモアイで、1956年に前出のヘイエルダール(写真の右上段で青い服を着た人物)によって一部が発掘され、1987年に全体が発掘された。
引用: イースター島のモアイ
私が生まれるよりも遥か前にモアイに胴体があることはとっくに知られていたのだ。
となると問題は「なぜ今発見されたのか?」ではないということになる。
2.なぜ今さらモアイの胴体のことをツイートしたのか?
モアイには胴体がある。
これは新発見でもなく「常識」である。
なのに今さらどうしてそんなことをツイートするのか?
ここが当該ツイートを貼ると晒しっぽくなるので避けたところなんだけど、
どうも「モアイの胴体の新発見」について言及してたアカウント、「政治に深い関心があるタイプのアカウント」っぽいんですよね。(最大限配慮した表現)
いや、政治問題に興味関心を持つのは何も問題ないからね。
政治のことにもモアイのことにも興味がある人がいても何も悪いことじゃないからね。
そんな怪しげなアカウントが「バズりそうな内容引いてきてRTやフォローを伸ばして…」みたいな…いや、邪推はよくないので単純に事実以上には立ち入らないようにしよう。
ツイートした人は本当にたまたまモアイの胴体がないことを2020年にもなって今更知ったのかもしれない。
なのでここも僕の気になっている問題の本質ではない気がする。
3.なぜモアイの胴体でバズるのか?
僕が感じた違和感の本質はここにある気がしてきた。
つまり「モアイの胴体」についてのツイートが実際にバズっていることが僕の心に引っかかっているのだろう。
いや、だってモアイに胴体があるのって「常識」じゃないの?
一応、モアイの胴体についてこの記事で初めて知って驚いている人のために言及しておくと、「常識」というカッコつきの表現を自分は概ねこういうニュアンスで使っています。
豆猫さん語講座
— 豆にゃあ (@MAME_NYA) 2018年11月13日
「常識」
私の記憶力のなさ故にどのような状況で覚えたかわからない知識なのですが、
僕のような無知なものでさえ自然に覚えた知識なので、
あなた方は当然のように知っているはずの情報。
「これくらい知ってて当然でしょ?」じゃなくて、
「どこで学んだか思い出せない程度になじんだ知識」の意味。
そう、実際さきほど挙げた『超常現象の謎解き』でも、モアイの胴体はついているのが大前提としたうえで、『昔の人にモアイが作れるわけがない!宇宙人によるものだ!』という伝説に対して、人間が作れるかどうかを語っている。
胴体の有無はそもそも議題に上がっているわけではない。
モアイに胴体があるという「常識」が何故こんなにもバズるのか?
なぜ「初めてモアイの顔から下が発見」などというあからさまな嘘がこんなにもバズるのだろう?
もしかして「モアイには胴体がある」という義務教育レベルの知識を知らない人がたくさんいるのか?
あるいは「モアイの胴体」は実は意図して学ばないと出会わない知識であり、それに新鮮さを覚える人もいる…?
どうやら、この辺りがポイントになってきそうだ。
なぜ、モアイの胴体を常識的に知っている人と、そうでない人がいるのか。
掘り下げて考え、調べてみよう。
一般的なモアイのイメージ
とりあえずモアイについてGoogle画像検索を試みてみる。
ぱっと見た感じだと胴体のついたモアイよりも顔から肩にかけてのみが生えている画像が多い。
モアイの「パブリックイメージ」はどうも「胴体のないモアイ」が優勢なように見える。
もう少し「イメージされるモアイ」について調べてみよう。
いらすとやのモアイ像→胴体なし
遊戯王カードにおけるモアイ→ほぼ胴体なし
モアイをモチーフにしていると思われるポケモン→胴体なし?
パブリックイメージとしてのモアイはどうも「胴体がない」ものに近いみたいだ。
つまり世の中には「モアイには胴体がある」ことを常識と思っている人と、
「モアイには胴体がない」のが常識だと思っている人がいて、
僕は前者であり、後者の人たちが「モアイの胴体」について知ると驚いて衝撃を受ける。
これが「モアイに胴体がある」という当たり前の事実が何故かバズるからくりなのだと思う。
さて、そうなると最後の疑問は「モアイには胴体がある」派の常識はどこで形成されるのか?という点になる。
4.どこでモアイの胴体を知ったか?
さて、難しい問題にぶつかってしまった。
私はモアイに胴体があることをすっかり「常識」だと考えているので、
どこでモアイの胴体を知ったのか思い出せない。
モアイに胴体があるのは当たり前のことなのだ。
例えば『超常現象の謎解き』のサイトでモアイの胴体を見たから知っているのか?
いや、そうじゃなかったはずだ。
あのサイトを開いて「モアイに胴体があったなんて!」と驚いた記憶はない。
もっと基本的なところからだ。
というか、驚いた覚えがそもそもないんですよね、モアイの胴体。
つまり私がモアイを初めて知ったとき、そのメディアには胴体のついたモアイがちゃんと載っていたはずなのだ。
だからこそ「モアイに胴体がない」という常識を持っている人たちに驚いているのだから。
正直、ここがわからなかったのでこの記事はお蔵入りになるところっだったんだけど、
なんとか思いだすきっかけを見つけられた。
モアイは「歩く」んだよ!
そうだ!
モアイは歩くのだ。
私がモアイを初めて知ったとき、モアイは歩くものだった。
歩くのだから当然、胴体や足がある。
「モアイ=歩く」
もちろん本当に石造が歩くわけではなくて、そういう伝説が残っているらしいんだ。
この歩くモアイの伝説は「モアイを造ってから海岸まで輸送する方法」が歩いているように見えたからという説が有力視されている。
モアイが転倒しないように後方から引いて支えながら、前方斜め左右からモアイを交互に引っ張る。
こうすることで可愛らしくモアイは歩く。
この映像を見た時に私は驚いた。
そうだ。モアイを実際に歩かせる方法は自分にとっては「常識」じゃなかった。
自分で調べ、見つけて、モアイが歩く様子に驚いた。
なんで驚いた? 確かに衝撃的なイメージだ。
でもそうじゃなくて「モアイの運び方」に別のイメージがあったからじゃないか?
思い出した! 僕が最初にモアイの運び方を知ったとき、それは丸太の上にモアイを載せて、丸太を転がす…そんなビジュアルが脳裏にあったんだ。
「モアイが歩く」という伝説を知っていた。
しかしモアイの運び方は「丸太で運ぶ」のが「常識」であり、
「モアイを本当に歩かせる」のは驚愕の事実だった。
ここのギャップだ!
僕は何かで「モアイが歩く」という伝説と、
「それは伝説であり、本当は丸太を使ったんだよ」という話を聞いたわけだ。
この刷り込みだ。
「丸太を使ってモアイを運んだ」という説とロープで引いて「モアイを歩かせた」という説のどちらが本当に正しいのかはわからない。(一応現在では歩かせる方が有力らしい)
この前者のイメージを強く抱いていたのはショッキングなエピソードが頭にあったからだ。
モアイを運ぶ丸太を用意するために森の木々を切り倒して、イースター島の人たちは環境破壊を狭い島で行った。そして、イースター島の人たちで殺しあったすえに滅んだ。
このイメージこそが僕のモアイ観の原点であるはずだ。
どこでいつ、それを知ったのか。
自分の部屋だ。僕は中学2年生の時に、たしかに自分の部屋でモアイのエピソードに出会ったのだ。
それが載っていたのはこの本である。
(画像のものと僕が読んだものの表紙が同じだったかは記憶が定かでない)
国語の教科書だ!!
たぶん、大いに理解してくれる人と意味が分からない人に割れると思うんだけど、
「国語の教科書」ってもらったその日に全部読んじゃわない?
僕は自室でまだ習ってもいない「モアイは語る」の文章を読んだのだ。
「モアイは語る」は環境考古学者である安田喜憲氏が書いた文章で、
光村図書出版の教科書では中学2年の国語で「物語でなく説明的なエピソードを語る」という学習のために扱われている。
記憶によれば『モアイは語る』では「肩までのモアイ」だけでなく、海岸線に並ぶ複数の「胴体のあるモアイ」の写真があり、モアイが歩く伝承にもほんの少し触れられていたはずだ。
そして丸太を用いて運ぶ方法や、運ぶための木を用意するために環境破壊が進み、イースター島の人たちは食糧難に襲われ、食べ物をめぐり争い、戦いの末に滅亡したショッキングなストーリーも確かここで知った。
これだ。
これこそが「胴体のあるモアイ」と「胴体のないモアイ」に関する認識のギャップなのだ。
国語の教科書はすべての日本人で共通するわけではなく、学校や年代によって内容が変わる。
光村図書出版で授業を受けた経験のある日本人は、義務教育の履修範囲で「胴体のあるモアイ」を知る。
そうでない日本人にとってモアイのパブリックイメージは「胴体がない」ものである。
だから我々(光村図書出版で学んだ人)が常識だと思っている、モアイに胴体があるという常識を持たない人たちがいるのだ。
そして、そういう人にとってモアイの肩から下は驚くべきものであり、それゆえにモアイの胴体に言及したツイートがバズるのだ。
Q.なぜ今さら『モアイの胴体』がバズるのか?
A.『モアイの胴体』を義務教育で習うとは限らないから。
おまけ
記憶の不確かさ
「モアイは語る」という説明的文章の授業について思い出した瞬間、豆猫さんの脳内に流れた存在しないはずの記憶…
M先生は「それでは『モアイは語る』を読んだ上で、最後のくだりについて考えてみよう。本文に書かれているように『イースター島は未来の地球』なのかな? それとも私たちは変えることができるんだろうか?今日はそれを書いて提出したら授業は終わりです」と言った。
退屈な国語の授業。
教科書はもう学年の最初に配られた時点で読んでしまっている。
それどころか実際のイースター島について本で読んで知ったうえで『モアイは語る』を読むと実に空虚な感じがする。
(イースター島は未来の地球なんかじゃない)
授業の最後に「今日のまとめ」として問いかけられた問題にそう答えた気がする。
イースター島の住人はモアイを運ぶために丸太を必要とし、森の木を伐りつくして、その結果、島の資源は失われて、争いの果てに滅んだ。
環境問題や戦争を行う現代人と地球そのものだということを言いたいらしい。
(流石に昔の人がどんなに馬鹿だからって自分たちの島の木をモアイのために伐りつくすのか?)
ちょっと考えればすぐにわかる。
人間はそこまで馬鹿じゃない。
ただし人間は残忍で愚かだ。
イースター島では部族間の争いはほとんどなかったという研究がある。
島の人が作った「武器」がほとんどなく、強いて言うなら投石ぐらいしか攻撃の手段はなかった。
そんな人たちが島ひとつ滅びるような戦争をするだろうか?
(そんなわけがない)
イースター島の住人は滅んだのでなく大陸から渡ってきた「外国人」たちによって
奴隷として連れ去られた。
島に渡ってきた船に数匹の鼠が入ればイースター島の環境を破壊し、森林を消し去るに至るという論文だってある。
また、イースター島の住人は狭すぎる島と少ない人口のために、ほぼ全員が知り合いであったと考えられている。
完全に闘争がなかったとは思わないが大規模な殺し合いはなかった。
殺した相手の親族に報復される。そういう小競り合いで滅びかねないほど小さなコミュニティを維持するため、彼らは意図して島民同士で殺しを行うことはない。
平和な島だったのだ。
【イースター島は未来の地球だとは思いません。この地球が宇宙人の襲来で滅びるのと、核戦争で人類が全滅するのとでは、後者の方がずっと早いに違いないからです】
先生からは赤ペンでバツをもらった。
当然である。
この単元の課題は「説明的文章の読解」なのだから。
文章に書いてあることから読み取って書くなら「人類の同士討ちによる絶滅」と「イースター島」はニアリーイコールで結ぶべきだ。
反対意見を語る場合も、「いいえ、イースター島は未来の地球ではありません。私たちは環境問題や戦争で滅びたりはしないでしょう。なぜなら、イースター島について学んだことでそれが良くないと知ることができたのですから!」くらいのことを書いて初めて「ちゃんと文章を読み取れた」という評価がもらえるのだ。
そういうことを中二の僕は理解してない。
最初に教科書を読んだときにもう知識として読み捨てたので、授業中に改めて読んだりしない。
読まないからどこまで書いてあるかを把握しないで、別のところで得た知識を元に提出課題を書くし、その知識について書かないから答案だけ見ればめちゃくちゃであることに気づかない。
突然、宇宙人がどうのと言う僕の回答をM先生はどう捉えただろうか?
この単元の目的は「説明的な文章」をきちんと読み取ることだ。
この子は読み取れてないと判断する他にないだろう。
だから国語は好きだけど、国語の授業は退屈だったのだ。
そんな思い出が脳裏をよぎった。
さて、しかし今回の記事をブログに書くにあたり、事実関係を整理したところなかなか奇妙な事態が浮き彫りになった。
イースター島の住人は滅んだのでなく大陸から渡ってきた「外国人」たちによって
奴隷として連れ去られた。
島に渡ってきた船に数匹の鼠が入ればイースター島の環境を破壊し、森林を消し去るに至るという論文だってある。
また、イースター島の住人は狭すぎる島と少ない人口のために、ほぼ全員が知り合いであったと考えられている。
完全に闘争がなかったとは思わないが大規模な殺し合いはなかった。
殺した相手の親族に報復される。そういう小競り合いで滅びかねないほど小さなコミュニティを維持するため、彼らは意図して島民同士で殺しを行うことはない。
平和な島だったのだ。
これらの記述は真実だ。
正確には「そういう論文や学説がある」のは事実だ。
実際にそれらが正しいか、「モアイは語る」にあるようにイースター島民が環境破壊と戦争で自滅したのかははっきりとはわからない。
しかし、Terry L. Huntがこれらの説を語ったのは僕が中学生のころだ。
この出来事は中学生の授業の時なので一見つじつまがあっている。
本当だろうか?
それらの主張は当時まだ日本語で書かれていないはずだ。
当時の僕が読めるわけないだろう。
もちろん、これらの問題に興味を持って扱った誰かが1,2年で論文の内容を翻訳して日本で説を広めた可能性は0ではない。
0ではないけど怪しいよなあ。
そんな都合のいいことは多分起こっていない。
そうなるとこれらの記憶は、おそらく誤りである。
はっきりとした視覚的な記憶があるのに?
あの時の教室の様子や【イースター島は未来の地球だとは思いません。この地球が宇宙人の襲来で滅びるのと、核戦争で人類が全滅するのとでは、後者の方がずっと早いに違いないからです】と書かれた解答用紙、呆れたような顔をしたM先生の記憶があるのに?
これらの記憶は真実なのか?あるいは虚構なのか?
僕自身にもはっきりとした答えは今のところだせない。
でも、僕は多分中学生の時にそんな回答は書いてないのだろう。
僕がホラ吹きや妄想狂だからだろうか?
いや、そうじゃなくて人間の記憶は非常に不確かなものなんだ。
今回の記事で名前を挙げた『超常現象の謎解き』からこんなコラムを紹介して、
この記事を終えよう。
あっ、それともうひとつ。
この記憶が誤りでも僕が生意気な中学生であったことは間違いないので、このモアイの件じゃない別のところでM先生を大いに困らせていた記憶のいくつかは本当の出来事だと思います。
20歳を超えて、M先生の偉大さがよくわかるようになりました。
本当にご迷惑をおかけしました。