バーチャルVtuver豆猫さんの与太話

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トライナリーと「コスティキャンのストーリー」

 前回

omamesensei2.hatenadiary.jp

 

 

さて、実は前回本当に語りたかったことについては尺の問題で削っている。
というわけで今回はそちらにふれていこう。

 

前回コスティキャンのゲーム」について触れた。

でもそれはまだまだ触りだけだ。
ちょっとばかりトライナリーにおけるトークンと感情移入について語っただけだ。

 

それはコスティキャンのゲーム論のコラムのひとつに過ぎない。
コスティキャンのゲーム論はもっと語るべきところが多い。

 

というわけで改めてコスティキャンのゲーム論に触れよう。

ああ、そうだ。
その前に…

 

今回扱っているコスティキャンのゲーム論」1994年版だ。

書いている途中でネットの邦訳版と英語版を読み比べて違和感を覚えていたのだが、
邦訳は1994年版の邦訳。僕が読んでいた英語版は2002年版だった。

 

時代に合わせてアップデートされてるので本来なら2002年版を参照するべきなのだろうが、
邦訳も存在し読みやすい1994年を今回は引用させてもらう。

2002年も既に10年以上前だし

 

コスティキャンのゲーム論こと I have no words & I must design(1994)

http://classes.dma.ucla.edu/Winter16/157/wp-content/ihavenowords.pdf

 

その邦訳版

コスティキャンのゲーム論

 

 

さて、コスティキャンはそのゲーム論の中でストーリーについても触れている。
拡張少女系トライナリーストーリーの部分こそがコスティキャンのゲームだ」という主張を語るわけだから、
やはりコスティキャンが原文でストーリーに対してどう語っていたのかを参照しないわけにもいかないだろう。

 

では該当部分を読んでみよう。

 

It's Not a Story.
(ゲームはストーリーではない)

 

コスティキャンはゲームと何かを定義するために「ゲームではないもの」を次々に挙げていく。
そしてまさにその部分で「Storyが『ゲームではないもの』の例として挙げられている」のだ。

……。

もう一度読み直そう。

Itは前の話を受けてゲームを指している。
ゲームとはストーリーではないもの。

なんてこった。
トライナリーのストーリーがコスティキャンのゲームである。
それを示す以前にそもそもストーリーゲーム定義から外されてしまっている

 

まずトライナリーのストーリーコスティキャンのストーリー」が違うものであるということを示さないことには本題に入ることすらできないみたいだ。

というわけで今回はトライナリーのストーリーコスティキャンが言うところのストーリーではないことをつまびらかにしていこう。

とりあえずコスティキャンのゲーム論の続きを読んでいこう。

 


邦訳版:
ゲーム関連の話をしているとき、「ストーリー」なるものが話題になる機会は非常に多い。
やれインタラクティブ小説のストーリーがどうした、RPGリプレイのストーリーがこうした、などなど。
どうやらゲームデザイナーの頭には、「ゲームとストーリーには何か関係があるに違いない」という発想が染みついているようだ。
しかし、これは本当だろうか。
少なくとも、この点についてはもう一度よく考え直してみる必要があると思う。

原文:
Again and again, we hear about story. Interactive literature.
Creating a storythrough roleplay.
The idea that games have something to do with stories has such a hold on designers' imagination that it probably can't be expunged.
It deserves at least to be challenged.

 

というわけでコスティキャンは「ゲームとストーリーが密接に関わる」という論に飽き飽きしているように読み取れる。
そしてこの後、Storyはゲーム定義ではないのだと彼はバッサリ切り捨てていくのだ。

 

邦訳版:
ストーリーは、もともと直線的なものである。
登場人物が厳しい選択に直面し、苦悩のあげく決断を下すシーンがあったとしよう。
しかし、実はその決断は作者によってあらかじめ定められたものであり、
読者が何度ストーリーを読み返しても変化しない。
その決断によって生ずる結末もまた変わらない。

原文:
Stories are inherently linear.
However much characters may agonize over the decisions they make,
they make them the same way every time we reread the story,
and the outcome is always the same.

 

ストーリーはリニア(直線的)だとコスティキャンは指摘している。
そしてその選択によって結末が変わらないことゲームStoryを隔てているというわけだ。

注意してほしいのはこの文章はコスティキャン四半世紀近く昔に書いた記事である点だ。


つまり、現在我々が知るようなストーリーやゲームの在り方はコスティキャンから見れば未来のゲーム形式であるということだ。

 

リニアな物語コスティキャンの言うストーリーだということは、
選択肢を選ぶことが結末を変えるようなストーリーコスティキャンのストーリー」ではないのだろうか?

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実は聡明なるコスティキャン先生は既にそこへ話を転がしている。
エッセイを先へ読み進めよう。

 

 

邦訳版:
こういう観点からすると「ハイパーテキスト」という新しいフィクションの形態はとても興味深い。

原文:
The hypertext fiction movement is interesting, here.


参考:英語版ウィキペディアにおける「 hypertext fiction」

en.wikipedia.org

 

 


ハイパーテキストフィクションというのはゲームブックなどに見られる物語の形式だ。
一塊の文章でなく文章の塊から文章の塊へと飛び移る


29
「君が分かれ道を左に折れると、そこには一匹のトロールが待ち受けていた」
「そいつは君をみると口の端から汚らしくよだれを垂らすと、右手に持った棍棒を振り上げて突進してきた」
「君がもし、この敵を迎え撃とうとせず、逃げ道を探して駆け出すのなら→14へ行け」
「勇敢にも立ち向かうというなら→97へ行け」

 

こんな感じで番号付けされた文章の塊を飛び移り、物語を読み進め、話が分岐していく。
こういった物語の断片を飛び移る形式がハイパーテキストフィクションだ。


邦訳版:
ハイパーテキストの作者だって、伝統的な作家と同じく実存的苦悩といったテーマを表現しようとしたりするわけだが、
伝統的な作家と違うのは、それを複数の視点でとらえたり、プロットをあちこちに飛ばしたり、全体的な流れを読者に決めさせたりすることである。
ハイパーテキストの作者がやっている作業は、伝統的な作家の仕事とゲームデザイナーの仕事を合わせたようなものだが、
本人が意識する以上にゲームデザイナーとの共通点が多いような気がする。
ともあれ、もしハイパーテキスト小説が文学的な高みに達したら
(もっとも私が読んだ限りでは、そういうレベルの作品は全く無かったけど)、
それは新しい物語叙述手法、もはや「ストーリー」と呼ぶことは出来ない何か別のものを生み出すに違いない。

原文:
Hypertext is inherently nonlinear, so that the traditional narrative is wholly inappropriate to hypertext work.
Writers of hypertext fiction are trying to explore the nature of human existence,
as does the traditional story, but in a way that permits multiple viewpoints, temporal leaps, and reader construction of the experience.
Something -- more than hypertext writers know -- is shared with game design here,
and something with traditional narrative;
but if hypertext fiction ever becomes artistically successful (nothing I've read is),
it will be through the creation of a new narrative form, something that we will be hard-pressed to call "story."

 


さて、トライナリー経験者のBotさんはもうおわかりいただけただろうか?


トライナリーは決して「文学的な高み」ではないかもしれないが、『もはや「ストーリー」と呼ぶことは出来ない何か別のもの』にかなり近い。

 

ただし、トライナリーは小説でなくアプリゲームの文脈に載る作品だ。
「文学的な高み」でなく「ゲーム」として、『何か別のもの』を昇華したひとつの形こそが拡張少女系トライナリーのストーリー部分」なんじゃないだろうか?


前回紹介したように拡張少女系トライナリーではあなたが選択肢形式で示される文章をLINEWAVEに書き込む形で物語が進む。
当然選んだ台詞に応じて相手の返答が変わっていく。

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そしてそれらの選択肢によって物語がどう進むかは誰にもわからない。
いや、作者である土屋さんはわかっていただろう? というのは当然の疑問だ。
これは結果論であるけれどサービス終了の決定などにより実際のところ結末は作者も想定していなかった方向へと進んだ。

これについては次回深堀していくとして…

 

ここまでのまとめ
トライナリーのストーリーゲームスト―リーではない」コスティキャンが言うところのストーリーとは違う。
(ので『トライナリーのストーリー』がコスティキャンのゲーム定義にあてはまるゲームである可能性がある)


しかしそれは直接「トライナリーのストーリー」コスティキャンのゲーム」であることの証明をしたわけではない。

 

今回はここまで。
次回はコスティキャンのストーリー」ではないトライナリーのストーリーコスティキャンのゲーム」であるかの話をしよう。